大津百町とは?
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大津百町って
どんなところ?
江戸時代の大津を描いた古地図 個人蔵
JR大津駅や京阪電鉄びわ湖浜大津駅などがある大津の中心市街地、いわゆる「大津百町(おおつひゃくちょう)」は、東海道の逢坂峠を越えて、琵琶湖に向かって東西に広がっています。まるで鶴が翼をひろげたような様子から別名「鶴の里」とも呼ばれ、江戸時代から賑わいをみせる、歴史ある町です。
明治時代の大津の街並み 大津市歴史博物館蔵
3つの顔を持つ大津百町
大津百町は、東海道五十三次の「宿場町」、琵琶湖水運の「港町」、三井寺(園城寺)の「門前町」という3つの町の顔を持ち、東海道最大の人口を誇る宿場町でした。その繁栄を示すのが「大津百町」という言葉です。実際、江戸時代中期には、ぴったり100の町を数え、湖と山にはさまれたコンパクトな場所に約1万5千人の人々が暮らしていたことがわかります。
大津城跡の碑
町のルーツは大津城から
大津百町のルーツは、戦国時代の天正14年(1586)頃、豊臣秀吉が琵琶湖から京都・大阪へとつながる拠点として、浅野長吉に命じて湖岸に大津城を築城したことに始まります。このとき、坂本から大津へと城が移されるとともに、城下の人々も移住したといいます。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前哨戦となる「大津籠城戦(大津城の戦い)」によって町は灰燼に帰しますが、徳川家康の時代になると大津は幕府の直轄地(天領)として復興し、商業都市への道を歩みます。この場所は戦略的にも経済的にも常に重要な土地であった証です。
大正時代の川口堀(今は公園になっている) 大津市歴史博物館蔵
かつてあった船入りは城の堀?
かつての大津城に張りめぐらされた堀は、江戸時代には船入堀(物資の荷揚げ場)として利用されたと考えられています。堀は、かつては大津百町のあちこちにありましたが、大正から昭和にかけて埋め立てられました。こうした堀跡は、公園などに姿を変えていますが、古い地図と見くらべながら歩くとわかります。
木曾海道六拾九次之内 大津 歌川広重画 大津市歴史博物館蔵
東海道五十三次でも有数の宿場町
大津百町の宿場町としてのにぎわいは、歌川広重の浮世絵のなかでも紹介されています。描かれているのは、京都から逢坂峠を越えて坂を下った八町通と呼ばれるところ。両側には宿屋が立ち並び、旅人や荷物を乗せた牛車が行きかい、奥には琵琶湖が見えています。ここには将軍や大名、公家などが宿泊・休憩をとる本陣もありました。大津には本陣が2軒ありましたが、今は建物もなく、本陣跡に建てられた明治天皇聖跡碑に本陣という言葉が刻まれるのみです。
大津絵 鬼の念仏図 江戸時代 大津市歴史博物館蔵
大津宿の名物「大津絵」
江戸時代に東海道大津宿の土産物として紹介されたものは、今もたくさん残っています。その代表的な名物は「大津絵」です。逢坂山から京へと向かう東海道沿いの大谷・追分の名産として人気を集めていましたが、大津の人々に現在も親しまれ「ゆるキャラの元祖」として、土産物だけでなく町のあちこちで愛嬌をふりまいています。
江辰板 東海道五十三次之内大津
歌川広重画 大津市歴史博物館蔵
琵琶湖がもたらした港町大津の繁栄
大津百町のにぎわいは、目の前にある琵琶湖がもたらしました。北国や東国から多くの荷物を載せた船がやってくる、物資の集散地だったからです。その多くはお米でしたが、これらは湖岸に立ち並ぶ幕府や諸藩の蔵屋敷に蓄積され、大津の米商人によって取引されたあと、京都・大阪へと運ばれていきました。こうした大津から積み出される物資は、大津の船持ちで組織された大津百艘船仲間が独占しました。こうした港町としての顔は、大津は経済的な繁栄をもたらすことになりました。
石場の常夜燈
いまも残る港町の痕跡
びわ湖浜大津駅の近く、古い地名として残る御蔵町は、かつて幕府の蔵屋敷があったところ。また駅名にもある島ノ関の「関」という言葉は、かつての港の荷揚げ場を指す言葉です。湖岸を歩くと江戸時代に造られ、湖岸の埋め立てとともに移設された「石場の常夜燈」があり、あちこちにかつての港町の痕跡をみることができます。
三井寺観音堂から琵琶湖を望む 明治時代 個人蔵
観音巡礼と琵琶湖のながめ
長等神社の脇から長い石段をあがると、大津百町と琵琶湖を一望する高台にたどり着きます。ここが三井寺(園城寺)観音堂です。
大津市内には、西国三十三所観音霊場の札所が3か所ありますが、ここは第14番目の札所。観音堂から見える眺めは、近くにある高観音近松寺とともに有名で、歌川広重の浮世絵や明治時代の横浜写真など、時代を通じて絵や写真で紹介されています。かつての観音堂は、山深い長等山上にありましたが、観音巡礼が盛んになることで、室町時代の終わりに現在の場所に移されたといいます。大津百町が持つ3つの顔の中でも、最も古いのが門前町としての性格だともいえるでしょう。
昭和戦後に活躍した観光船「玻璃丸(はりまる)」
大津市歴史博物館蔵
琵琶湖遊覧の玄関口へ
明治を迎えた大津百町は、交通の変化によって町の様子が大きく変わりました。明治2年(1869)の蒸気船「一番丸」の就航、明治13年の大津-京都間の鉄道開通で、町は一段と便利になる一方で、全国に広がった鉄道網によって物資が大津を通過するようになり、港町としての大津百町は大きな転換期を迎えました。
そこで目をつけたのが観光です。大正から昭和にかけて、琵琶湖には大型観光船が数多く浮かびました。その玄関口となったのが大津港でした。
老舗と商店街のにぎわい
宿場町、港町、門前町という3つの町の顔を持つ大津百町では、多彩な商業活動が行なわれていました。
江戸時代の同業者の集団を「仲間」といいますが、大津百町には38の仲間(業種)があったことが、古い記録に残ります。なかでも菓子や酒造りは、当時のガイドブックでも名産として紹介されるほどの評価を受けていました。大津百町には、今も100年以上続く老舗が数多くあり、様々な商売が脈々と続けられてきました。明治以降の大津百町はこうした商店が商店街となり、周辺の人々がお買い物に来る場所としてにぎわうようになりました。
菱屋町商店街のにぎわい 昭和初期 大津商工会議所蔵
江戸時代に宿場町・港町・門前町という3つの顔を持った大津百町は、琵琶湖のめぐみを受けながら、古くから多くの人や物が行き交い、時代に応じて常に古いものと新しいものが入れ替わりながら現在に至ります。こうした歴史の積み重ねを感じられる町、それが大津百町の魅力だといえるでしょう。
琵琶湖疏水通船(現在)
大津の歴史ストーリーがたっぷり
京都から電車で9分の大津市は、かつて大津百町として繁栄した歴史とびわ湖をはじめとする豊かな自然がゆるやかに調和したまちです。四季折々の顔を見せる大津は、一年通じて楽しむことができます。
近江八景「三井の晩鐘」で名高い三井寺、明治時代に当時の最高の土木技術をもって造営された京都へ水を運ぶ人工運河である琵琶湖疏水など、歴史的な遺産も数多く存在します。近年、琵琶湖疏水は、京都と大津の間で船が運航しており、桜や紅葉に彩られた疏水の景色を楽しむことができ新たな観光スポットとして人気を集めています。
なぎさ公園(現在)
市民が憩う湖畔のリラックススポット
主要駅である大津駅から10分も歩けばびわ湖にたどり着きます。これは、大津の最大の魅力です。びわ湖畔にあるなぎさ公園は、地元の人が散歩や釣りを楽しむ憩いの場所となっています。大津を訪れる方は、びわ湖クルーズや湖岸のサイクリングで、びわ湖を満喫します。
大津百町 DAYSとは?
「大津百町DAYS」は大津百町エリアを訪れる人
近くに住む人のための、ポータル情報サイトです。
どんな体験ができる?買える?食べられる?という町散策に役立つ情報はもちろん、町の雰囲気や温度感が伝わる“日常(DAYS)”にフォーカスしたいと考えています。
東海道往来の旅人を迎え入れた宿場町。そのおもてなしが息づき、青く光るびわ湖に抱かれた大津百町には、いつものんびりとした時間が流れています。宿場町をルーツとする商店街や歴史ある建築、老舗の名品・グルメなど“暮らし”に基づく魅力が沢山。最近は町家ホテルやカフェなどのニューウェーブ店も誕生し、新たなにぎわいに注目が集まっています。
大津百町の暮らしを旅しに、ぜひ訪れてみてください。